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2015年12月29日

ひとが壊れるとき

ひとが壊れるとき… ぶっちゃけ、私たちはみな等しく「紙一重」の状態にあると思うひとりです。唐突ですが、では、

人はどのようにして「壊れる」のか。

人間や動植物や、仮に、いわゆる生きとし生けるものがあるがままに命を生き機能する状態であるとき(こと)を「正常」と定義するならば、あるがままに機能がされないときに非常が現れ障害をうむ_という理屈であり、実にシンプル!ではないか。

例えば、私たちのフィジカル面においては、あるがままの状態に何らかの不具合が起きると、身体の各器官に機能不全を起こして病気を引き 起こすし、外的には負傷などしてダメージを受けするし、心や気分といったメンタルな部分においてはQi:氣:エネルギーバランスが崩れて一気に落込んだり上気し精神が病んだり…ホリスティックに負の連鎖をしてゆく。

こういうことは程度の差こそあれすべての人に起こりうるものです。

少し乱暴な結論ですが、私たちの心身が健全であるためにはあるがままに機能する状態を保って生きる事_に他なりません。ごく自然にそのままに、人として動物として植物として、生きとし生けるものがあるがまままに生きれたらいいのにね…。

あるがままに命を機能させる、あるがままに自身を生きるって、本当に難しいことなんだろうか!?

みな生まれたときは純粋無垢な存在たち
愛らしく生き生きとした生命力で満ち満ちている
それは愛そのものだから愛らしくあり
それ以上もましてや以下などない

それなのに…

生れ落ちたとき、場所、環境、出会うであろうすべてのひと、関わるであろうすべてのこと、その一つ一つのたった少しの違いだけで、その愛はだれも望んだわけではないはずの変容をしてゆくこともある。

社会という掟の中では許されない「はみだしもの」と化すこともあれば、他方、社会的弱者であったり、適応障害というレッテルが貼られ、ますますの格差に自他ともの生き難さであったり、苦しみであったり、悲しいかな皮肉にもその作り出された現象界に自らが身をおくことになる。

ひとはなぜ壊れてしまうのか
愛の不足による生命体機能不全

それしかないとわたしは思う。
色んな原因、背景、関係性はあるでしょうが、それは枝葉であっても根幹ではない。では…

愛とはなにか

私たちは自他共に作り出された現象界を生きること、この命を全うしてゆく中で真に問うこととは、究極この1つだけだとわたしはいまさらに思うのです。

他者がみせてくれるその現象界は、わたしの現象界からみて判断など到底できうるものではない。
ただ、愛の不足による機能不全を起こしている人があるならば、私たち一人ひとりが自身を真に生きることであり、自然に湧き出す純粋なる衝動、いうなれば無償の愛で接してあげたいではないか。それが、そこに生きている当人にとってどんなふうに感じてもらえるかなど考える必要もなく、ただ、生まれた時の愛なる存在のように、自他ともを感じてあげたらいいではないか…

そんなふうにわたしは思うのです。