ブログ

ブログ

2014年1月8日

「神聖」なる思いであるがこその危うさ

最近とても強く思うこと、といいますか、前からずっと思っていることを書いてみます。表現の未熟さもあるので、誤解されてしまう部分もあるかもしれませんが…いま思うことを残しておきたいと思います。

Spiritual,Oneness, Enlightenment, God, Divine….精神世界系の話には付き物のワードがこの他にもたくさんあります。馴染みのところではAngelたちもそうなりますかね。

きっと興味のある人であれば、たくさんの書籍も読まれているでしょうし、それらの本で書かれているどれもその通りで、どれもが説得力もあり、しかしながら一方で、見方によってはどれもが非現実的でありいかにも「スピ」的です…(笑)

何が言いたいかというと、例えば_あるとき良書に出会う。それは素晴しい出会いになった_人との出会いのみならず、1冊の本で人生観が変ることは多々あります。

ただ、本を読み「理解」しようとしている段階では何も分からないということです。マインドは過去の情報からでしか判断できないわけだから、未体験のことには情報がありません。なので、そこで無理に「分かったつもり」にはならない方がいい。なんとなく分かった「ふう」になっているだけでは、本末転倒、自身の人生を生きるという道から外れ兼ねない危うい一面があると思うからです。

私は、人とは自らが体験や経験をしたモノゴト(デキゴト)からでしか、真には腑には落ちてゆかないものだと思うひとりです。どうあれ、私たちは即物的物質的世界に生きているのがベースにあるので、いきなり「神なる…」と聞いたところで、目には見えないけれどどこかで漠然と守ってくれる大いなる存在というイメージを持つのみで、ひとつ宗教をおかりすれば「キリスト」であり「ブッダ」他「etc」となるのでしょうが、もっと感覚なものを捉えて言うと、神という言葉の表現自体に限界があります。

人とは試練や辛苦や悲しみなどの中にあるとき、どこかでなにかにすがりたい気持ちになるものです。個人差はあれど、どこかでみな@救いを求めているwhy?なぜでしょう?who?だれが救済を求めるのでしょう?_人の持つ仏性とはまた別に、それゆえ宗教という世界もあるのだと思います_「自我」_ここでこの言葉とも出会うことになります。

このをお借りして今世を生きる以上、自我とは常にパートナーとなります。スピに変に偏った「理解(分かったつもり)」を持ち過ぎると、自我を無くすことがよいことのようにも思われがちですが、やはり急ぎ過ぎないことだと思います。悟り(エンライトメント)を急ぎ過ぎて、それこそ”スピ懸かり的”ふわついたものになったら、本来の「人生を生きる」こと、いまを生きることからますます逸脱してしまい兼ねません。

私も含めて!?ということになるかと思いますが、精神世界系でのワークをしている人はとてもたくさんいます。きっと各々の師と出会い、学び、導かれ、同時に個々の意識進化をしてゆく…のでしょう。そして、その師を選ぶのも自分であり、自身の人生を生きるのもやはり自分。自我を超える体験や覚醒があっても自我が消えることはない。(だって消えたら…)

神聖さや仏性に敬意を払いつ、自我ともバランスよく付合っていくことの方が、芳潤な人生になるような気がしています。
そう言う意味で、生きる上で自我とは常にパートナーだと思います。
そこを忘れないようにしたいものです。

Pontaは…彼のままあるがまま…いまここを生きているようです。私の師ですわ!^^

一日いち瞑想 一日一リセット まさに実践!^^