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2014年5月23日

疑いの波動はどんな?とき

故事のことわざに「疑心暗鬼(を生ず)」という言葉があります。

_心に疑いがあると、様々な不安や妄想を掻き立てられ、なんでもないことでも恐ろしく思えたり、疑わしく思えたりするものである。疑いの心をもっていると、暗闇の中にいるはずのない鬼の姿が見えたりするということから。

『列子・説符』の注釈書に「諺に曰く『疑心暗鬼を生ず』と。心疑う所有れば、その人鉄を窃ずといえども、我疑心を以て之を視れば、則ち其の件件皆疑うべし」とあるのに基づく。「疑心、暗鬼を生ず」と区切って読む。「疑心暗鬼を作る」、また単に「疑心暗鬼」とも。_という意味をになります。

心に疑いがよぎるとき。これはどんな人にもあることだと思います。分かりやすいことで言うと、例えば、お付き合いしている人(恋人とか夫婦とか…etc)が、最近何らかの理由で帰りが遅かったり、いつもなら連絡があるのになかったり、これまでと少し違う感じかあったりすると「え?まさか…浮気!?」と立ちどころにピ〜ン!ときたりして(単なる勘違いも含む)、その後は、疑い(=不安)の念に覆われ、一枚の「磨りガラス」を入れた状態で相手を見るようになります。

ここで「磨りガラス」としたのは、本来のありのままを見るのではなく、あえて見え難い状態にして「見る」ことを表しています。信頼している相手に裏切られるのは辛いですしとても傷つきます。磨りガラスとは、まさに不安が生み出した自己防衛の産物であり、心のありようで自分本位でいかようにも「見え」てしまうものでもあります。

自己防衛の産物。実は、これこそが偽物であり、自分自身を混乱させている幻想のトリックなのだと思っています。

仮に相手に本当に浮気されたとしましょう。あんなに誠実で嘘の無いあの人がまさか…。このまさかも幻想です。相手も人、しかも、一番自分に近くてともにある人です。いうなれば、互いの波動を共鳴し合って世界を作っているわけです。そんなふうになったのにも何か原因があるものです。

不安…(負なる波動)。その不安とは一体どこからやってきたのでしょう。不安にさせたきっかけは相手の行動(行為)だったかもしれませんが、実は「自分自身」の中にあるものが表面化したものでしかありません。

相手を責める前に、まずは自分自身を振り返ってみることが先です。

「わたしが◯◯だったから…」
「わたしのここが△△だったから…」

きっとこんなふうに、何か思い当たることもあるかもしれませんね。確かに。でも、原因はそこじゃなく、その◯◯や△△である(あった)自分はどうして?どうしてそう〇〇や△△が「こんな自体が起きた」と思ったのか?!…そこに根付いているものこそが正体だと思います。

だめんず、不倫癖、借金癖、虚言癖、盗癖、ドラッグ、Psychopath(←パソコン遠隔事件で出てきましたね、この言葉も…)…みな心理的な闇の部分の断片的な現われでしょう。望んでいないのに…繰り返しているときは学びであり、根っこに気づくように起っている現象だと感じます。
しかしながら、軽度のもの(という尺度は難しいですが)なら誰もがみな持っている要素です。病気と一言では片付けられないものでもあります。一言で完結することはできませんが、わたしは”愛の欠如”だと思っています。

疑い(の波動)を見つけたとき、それは自分自身のクリアリングチャンスであり、自身の源である愛なるところ(意識)に気づいていくときなのだと思います。
本気で自分のことを愛すること。自分とご縁を繋いでくれているすべてのモノゴトを愛すること。愛とは好きとか嫌いとかロマンスの類のことではなく、自然と口をついて出るありがとうや感謝なる思いといっていいと思います。
いまは出来ない!とか、なかなか難しい!とか、心は抵抗するかもしれませんが、そもそもそれすら愛の裏返し。まずはそういう姿勢(型)から入るだけでも健全ですし、よりスムーズにことが運ぶようになると思います。

かくいうわたしとて、同じです…

💗

一日一リセット 一日いち瞑想 みなさまよい週末を〜♡

このひとはうたがいをしらないんだわんっ…(笑)