2013年1月29日
手紙
最近は、携帯(スマホ)のさらなる進化もあって、手書きの手紙やはがきなんてめっきり無くなりましたよね。年賀状をはじめ季節の便りなどはありますが、文字もパソコンで打って印刷するのがメインになってますし100%手書きってのはほとんどないと言ってもいいかもしれません。
今日、久しぶりにこれまで頂いた手紙:捨てられない大切な物として保存してある数通の手紙を、何とはなしに読み返したのでした。(年に1、2度こんなことあります^^:)手紙といっても日頃は記憶の外、意識の外にあるものですし、その内容なんてほとんど記憶にはありません。でも、処分することなくしっかり残している手紙ですから、それなりの思いがあっていまもここに残してあるのだと思います。
それらの手紙には、そのときの自分や確かにあった人間関係を思い出します。「あんなことあったんだなぁ…」若いなりに懸命だった自分や、その時々に出会った人たち、そこにドラマがあったこと、自分成長記!?みたいにそこに記録されている…そんなふうに思いました。
「様々な出会いがあった。ステキな人たちと出会った。事の良し悪しに関わらずその時々の私に無くてはならないご縁に導かれてきていまがあるんだな…」と、今日はそんなことをしみじみ感じた読み返し^^: でした。
1つは…すでに過去のこととして昇華していることですが、あんなに大嫌いだった父からの手紙。。捨てられなかった理由はいまだから分かります。「こんなふうに優しくていいところもたくさんあった…」そういう部分(父)が手紙を通していまも生き生きとした証しとしてあるのです。父との間では色んなことがあり過ぎたので、長いこと素直にもなれなかったし過去に対する思いを手放せなかったのですが…いまでは思い出に変っています。
だれも完璧な人なんていませんね。ときに過ちを犯し、人を傷つけ、自分を傷つけ、エゴに支配され愛(自身の源)から離脱してしまったり…。
だからこそ、生きている一生のうちどこかでその過ちに気づき、心からI am sorry, forgive me, thank you, I LOVE YOU…と素直言えるその人は幸せです。その瞬間こそが幸せへの扉を開くときなのですから…それは過去ではないし遠い未来にあるものでもありません。すぐそこに、いまここに、だれにも平等に起こりうる薄皮一枚をはがすような機会なのになって。
…あのときの自分、そのときは精一杯だったんだ…と。それは自分=(イコール)自分と向き合ってくれた全ての相手にも言えること。。そう思えたら自他ともに許しあえるときもくる… そんなんで、いいじゃないか。
そんなことを思った古い手紙でした。