2011年9月7日
怒りの根源
今日は私、朝からなんだかイライラしていたのです。。。
そういう時に限って、もうPontaたらっ!玄関マットにそそうをしでかしちゃって(>8<)…Peeはないよぅ〜って偽アクションにてまんまとゲージから出してもらうなどという裏切り技っ…しかも洗濯物は増やすわっ…私のイライラはMaxっに…
とはいえ、この出どころの良く分からない「怒り」の矛先をどこへぶつけられるでもなくますますいらだつみたいな…。「すぅ~はぁ~すぅ~はぁ~」ゆっくりと深呼吸。まずは自分の感情をなだめ、ヒーリング音楽にてしばし心を落着かせることに。。
「この怒りはどっからきてるんだろう…」そんなことを考えていましたら、まさにシンクロ、タイミングのいいブログ記事に出会うことになりました。その方のブログに:「日本メンタルヘルス協会」代表、衛藤信之先生の「えとうのひとりごと」からコピペで紹介:がされていたのです。
それを読みながら「まさに…」と共感した部分を、原文からさらに抜粋した形でコピペしてみます。。
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自分の完璧を求める心が、他人に怒りをぶつけてしまう。
「正義論」で来るから、責めている人も、責められる人も、互いに許したり、自分の意見を述べるという逃げ道がない。
奥さんが正しさを武器にするため、ご主人が口を閉ざしてしまうケースも多いし、その逆に、正論でくるご主人に、忍耐している奥さんも少なくない。
どちらも楽しくない。
人間は理屈で動く動物ではなく、感じて動く動物だからです。
問題なのは苛立ちの本当の意味を知らないで、他人を裁く正義の権化と化した、その人のパーソナリティです。
正義を叫ぶ人によって、誰かの心が傷つけられてゆく。
最後に必要になるのは、自分が正しいと思っている正義のよりどころを客観的に見つめ、自分を疑ってみることです。
自分の正しさは絶対なのか?
自分も知らないで人を傷つけることはないか?
自分の間違いは許すけど、他人の間違いを許せないのは、人生を楽しんでいないからではないかと、自分に訊ねてみるのも良いでしょう。
洞察の目を向けることが大切なのです。
心の世界は、単純に「正義」と「悪」という二元論ではなく、自分も他人においても、人は複雑なしがらみの中で生きているという優しい眼差しを持ちたいですね。
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私の怒りの根源、まさにこの「正義」によるものかもしれないと思ったのです。正義感も度を越すとエゴになる…ううむ。。私とて、いい悪いだけで判断しているつもりもする気もないのです。ただ、ときどき私の中の「正義」が人を裁きそうになるときがあります。それも自覚しているがゆえに、私の感情は、行き場をなくしてイライラとした波動を創り出し、ますますいらつくという構図になっていたのでしょう。。
「ああ、そうか…私の中はそういう思いがあったんだな」「でも、いいよそう思っても。いいよ怒っても」と、そういう感情が自分の中にある事を認め、そういう感情を持ったことを許すこと。そうすることで不思議と平静さが戻ります。苛立ちの意味が分かれば…「もうこの感情はいらないものだよね」と、手放して終りですね。。
うむ…これ、レイキの極意じゃん。。。私もまだまだ修行がたりません。。。ふぅ~。。
い
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