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2012年4月20日

長かった冬は 春を心から感謝できるため…

長かった冬は、春を心から感謝できるために…

東京では桜も終り4月もすでに後半、ようやく春らしくなってきましたが、今年の冬は寒くて長かったですね。思い返すと、この期にあれこれ自分自身を見直すことになる出来事を体験した人は多かったのではないかな…と個人的に感じています。

先日のレイキヒーリング交流会へ参加くださったみなさんも揃って「私も…」と仰ってましたので、今年は目覚めや気づきの多い年になるのかもしれませんね。

はい。私にもありました。(いまなお向き合い中…そんな自分含めて静観中…)


「なかったことに…」したいことって、人生の中に1つや2つはある(あった)かもしれません。

罪のないかわいいことから、そうではないものまで。。(んー恐ろしいっ)

でも、やってしまったことをなかったことにはできないものです。

やったこと(すること)には、それなりのこと(結果)がセットでついて来るものですからね。

ご存知のように、原因と結果の法則はすべてに起る自然の摂理です。

仮に…

1)自分でも気づかないうちに(まったくの不本意の状態で)誰かに迷惑かけてしまったり傷つけてしまったりすること(…なかったことにしたい前に、本人は気づいていません…)

2)実は腹ん中では重々分かっていて(仮に本意とは違うかもしれないが’エゴ’に支配された状態で)誰かに迷惑をかけてしまったり傷つけてしまったりすること(…なかったことで済ませられたら楽でしょうけどね…)

さあ、1)と2)ってどっちが「罪」なのでしょう。

結果的にはどちらも「カルマ」を生んでしまっている状態だと思います。

人間社会で生きてゆく上で2)が許されないことは際立ってみえるかもしれません。ですが、2)にもそこに至った経緯や「原因」「理由」などが潜んでいて、深いところから紐解いてゆかないと、その出来事に潜む「真実」はみえません。

そして2)には、被害者と加害者が成立し対立という形が生まれますので、まじで双方しんどい力関係が生じます。正直、どちらにもなりたくない。

起った出来事が発端となり、互いにぶつかりあうわけですが、やはり起きたことを「なかったこと」にはできません。起ってしまったものにはイヤでも向き合い、新たな行動をとってゆくしかありません。

そこに発生している出来事を無視して一時的に逃げたとしても、いずれはまた形を変えて同じような問題が起ります。起きてしまった(起こしてしまった)ことに対する「ツケ」はいつか必ず支払わなければならないものです。

(いいじゃん、このくらいでこの問題は終わっても。って思って流せればいいのにね。やっぱそうなんだ…本来のあるべく姿:愛:に向って昇華されるまで手を変え品を変え付きまとうんだね…

人を傷つけたいとか、苦しめたいとか、憎しみなどの「念」ってものは、ほんとのほんとのほんとう〜の心底から望み思いたくて抱いたエネルギーではないものだと思います。(ただ、こういう念っていうのは抱くとなかなか手放せないくせ者ですから要注意。爆弾を自らで抱きしめているようなものですがらいいことはなにもないものです、ちなみに。)

もしそんな人がいるとしたら…それは積年の怨念に通ずる「原因」がどこかに存在していて、その人が過ごして来た「過去」からの積み重ねのどこかに起因しているものがほとんどだと思います。

もしかしたら「なかったことに…」といって逃げて来た結果の結果の結果が…形を変えて噴出しているのかもしれません。

こういうのを因縁とかカルマって言い方をよくしますね。

仮に…の1)はどうなんでしょう。気づかないうちにという状態です。

このような場合には、それを引き起こしてしまう自分に「気づき」の出来事がたびたび起ります。。よくも悪くも。

「どうして?!傷つけあう人と付合ってしまうんだろう」とか

「どうして?!なかなかベストパートナーと出会えないんだろう」とか

「どうして?!みんなから煙たがられたり嫌われちゃうんだろう」とか

「どうして?!一生懸命働いているのにいつも貧乏なんだろう」とか

「どうして?!こうも利用され騙され貧乏くじばっかり引くんだろう」とか

「どうして?!家族のためにつくしているのにみな幸せとはほど遠い中にいるんだろう」とか

100人いれば、100通り×関わりあっている対人数 …例題もつきませんね。こんなふうに(思い過ごしもふくめ!)イヤな問題が形を変えながら繰り返されていたりしていると思い当たる節があれば、一度自分自身としっかり向き合う必要があると思います。

こんなとき陥り易いのは、問題を共有している相手の方にフォーカスしてしまうことでしょう。けど、違うんですよね。実際すべては自分なくしては存在しない問題(いい悪いではなく)ですから、どうしても「自分」自身に向き合うしかないのです。

私は思うのです。

1)も2)も「無かったこと…」にはできないけれど、

例えば、自分が失敗してしまったことや何らかの罪をおかしてしまったとき、本意じゃないことをしでかしてしまったとき…etc 望んでもいないイヤなこそに巻き込まれてしまったとき…etc

そんなときこそ真に「自分自身」と「真摯に向き合う」ことが要求されているんじゃないかと。

それが仮に、自分が被害者的立場になっているとしても、相手をののしり責め立て恨み通しても何も解決はしないし、それどころか自身の波動も落ちて悶々と渦を巻き、そこには幸せとはほど遠い思いを自らがみしめるだけなのです。

不誠実で嘘つきの相手を恨み責め、仕返してやりたい思いを持つのは正直止められないし気が済むまでその感情を抱いたらいいと思います。

ただ、ずっとそれでは逆に自滅に向ってしまうだけだということを知る必要がある。恨み損!ということです。まさに負のスパイラルに巻き込まれ、新たな苦しみ(カルマ)まで生んでしまうことになります。

どうやったら相手を懲らしめられるか!

どうすれば相手を変えられるか!…という攻撃からの視点ではなく、

どうすれば「わたし」が(できれば相手も)幸せな気分であれるのか!

どういう自分であれたら「わたし」が心地よくいられるか!

という調和の視点に変えてみること。

(そ、そんなこと、できないっ。してたまるかっ!と、エゴはいいます。そして感情が盾になるのでなかなかのガードぶりです。かくいう私も同じくでした。この長い冬の間に、ようやくこの調和と愛の境地に気持ちが静まることができたのですから…:)

仮に、あなたを傷つけた不誠実な相手がいたとします。

悔しくてもその人はそれまで(不誠実な)の人だったのです。そのことを認める(抵抗しない)しかないのです。そこに意味付けも言い訳も解釈もしないことです。

でも、そんな不誠実な相手なのに、あなたは愛をもって信頼して接して来たのです。それは事実でしょ!?そんな自分を後悔するのではなく、誠実であった自分を褒めてあげたらいいと思うんですよ。見抜けなかった自分の愚かさを責めるより、優しくて思いやりのあった方の自分にフォーカスできたら悔しさも半減できることでしょう。

そして、そんな愚かで誠実で…すべての自分を認め、いまある状態をしっかり受け止めることが、あなたをもっと成長させ大きくさせてくれるに違いありません。

この課程が一番大切なんだと思うのです。最も「なかったことに…」しないでおきたいステップですね。

起った出来事を「無かったことに…」できないようになっているのが世の摂理で、そしてそれが愛に昇華させるためのステップであるなら、ツケはいつか「当事者」に回るようにできていることを信頼して、きょうをいい気持ちで過ごすことをおすすめしたいのです。

もしもいま、悔しくてせつなくて落ち込んで怒りが湧いてはらわた煮えくり返るくらいの中にはまってしまっても、冷静にそのコトに向き合うことでしかないことを忘れないでいて。。

それは、今日一日に受け取っていいはずの幸せを台無ししてしまわないようにしたいから。

なかなか難しいことですけれど、こらえ時っていうのは誰にでもあるものですな。

けど…大丈夫さ、私なら乗り越えられる。

そんな根拠の無い自信こそがとてつもないパワーを与えてくれるのも真実。

絶対なる信頼は、誰にではなく自分自身におくのです。

そして「なかったことに…」しない誠実さ、逃げない強さといさぎよさを選択する。

どんな状況にいても、見いだせるきょう1日の幸せの数々を逃さないように。

なーんてふうに。自分で自分に説いてみた。。

久々の長文ブログ^^:: 最後までお読み頂きありがとうございました♡

h久々の長文ブログ^^:: 最後までお読み頂きありがとうございました

きょうをいい日で!

幸せな人にはやっぱり笑顔が似合うから…